2025年3月22日 / 最終更新日時 : 2025年3月22日 ham179 アーカイブ 「故 鈴木惠一氏お別れの会」が執り行われました 1月21日(火)に82歳でご永眠された故 鈴木惠一 前監督のお別れの会が3月20日(木)東京プリンスホテルにて執り行われました。明治大学スケート部OB、日本スケート連盟、西武グループの関係者など生前ご縁のあった方々に多数ご参列頂きました。 久しぶりに会ったOBの皆様も昔話に花を咲かせ、旧交を温めることができました。 発起人を務めた明治大学スケート部OB会 駿台氷愛会の宮崎今佐人(けさと)会長も「練習は本当に厳しいものであったが、世界を知る鈴木惠一さんのおかげで強くなれた」と挨拶でお話されました。 ご参列頂きました皆様、供花等をお供え頂きました皆様、心より御礼申し上げます。 《故 鈴木惠一氏 プロフィール》1942年11月10日生まれ。幼少期は北海道苫小牧市で過ごした。子供のころからスケートに親しみ、小学6年生のときにスピードスケートの才能を開花さた。北海道苫小牧工業高等学校在学中に、国体とインターハイで2冠を達成。卒業後は、地元の王子製紙に就職したが、スケートに専念するため明治大学へ進学した。競技者としては、世界選手権に7回出場、うち500mで5回優勝、1968年と1970年には500mの世界記録を樹立するなど輝かしい実績を残した。しかし、オリンピックでは、1964年インスブルック、1968年グルノーブル、1972年札幌と3度出場したが、惜しくもメダルには届かなかった。特にグルノーブルオリンピックでは金メダル最有力候補者として注目されていたものの、レース直前の氷上ウォーミングアップ中に小石を踏み、エッジが効かなくなり8位に終わった。生前ご本人もスケート人生の中で最も忘れられないレースであり、そこで金メダルを獲れなかったことが人生でいちばん悔しかったと語っていた。1972年の札幌オリンピックでは日本選手団の主将として選手宣誓を務め、大会後に現役を引退した。引退後は、西武ライオンズの球団広報として活躍し、選手とマスコミ・スポンサーの橋渡し役を担った。1993年、当時2部に低迷していた母校・明治大学スケート部の再建を託され、監督となった。そのころ明治大学に強豪選手は入部せず、まさにゼロからのスタートであった。その後、トレーニングルームを整備するなど練習環境を整え、結果が出なくても常に情熱をもって選手を指導した結果、監督就任後7年目の第72回インカレで24大会ぶりの学校対抗優勝を果たすとその後8年間で4連覇を含む7度の優勝を誇る強豪校に育て上げた。2004年1月の第76回大会では戦後初となる全種目完全優勝を成し遂げ、教え子として6名のオリンピアン、多くの日本代表選手も輩出した。一方で2004年からは日本スケート連盟理事、スピード強化部長を歴任し、2010年からは副会長として競技の普及発展にも尽力した。2006年のトリノオリンピックではスピードスケート日本代表監督、2010年のバンクーバーオリンピックでは日本選手団の総監督を務め、橋本聖子選手団団長を支えるなど、生涯を通じてスピードスケートの発展と後進の指導に尽力した。2017年には明治大学の学生、教職員、校友らの中で、学術・文化・スポーツなどの分野で顕著な功績を挙げた方に贈られる明治大学特別功労賞も授与された。 コメントを残す コメントをキャンセルメールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目ですコメント ※ 名前 ※ メール ※ サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 上に表示された文字を入力してください。 Δ